中国を語る |
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深センから澳門へ:嶺南紀行その四 |
九月十三日(木)晴。早朝六時半に起床、七時半に朝餉をなし、九時にホテルを辞す。澳門行の船の発着場はホテル近くにあり、そこまで歩みて至り、通関手続きを為して後、船に乗り込みぬ。 船は深?の貨物港に沿って進む。荷揚げのためのクレーン林立し頗る活気を感ぜしむ。しばらく進むや船は内湾を脱せしと見え、海岸線は遥か彼方に霞んで見えしが、四五十分ほどして対岸の本土に近づくや、高層ビル群の連なる光景を見る。そのさまあたかも屏風の立てるが如くにて、海岸線に沿って延々と連なるなり。どうやら深センから澳門に至る海岸線はかかる高層ビルの壁に遮蔽せられをるが如し。これ過去数年間の出来事なるべければ、中国経済近年の活況を思ひ知らさるるなり。 八十分ほどして澳門の港に到着す。通関手続きをすませて外に出れば、現地ガイドの女性出迎へに来りてあり。名を劉といひ、年齢は五十代半ばと思し。早速バスに案内せられ、市内観光に赴く。 車内ガイドいふ、澳門はポルトガルの植民地なりしが、千九百九十九年に中国に返還せられたり。現在は人口五十万余にて、殆どは中国人なり。されどポルトガルの影響はいまだに強く、ポルトガル語は必須の言葉なり。公務員などはこのほかに、英語と北京語の能力を求めらる。されば彼らは多言語空間を生き、極めて窮屈な人生を送りをるなりと。 澳門は香港に比すれば発展の状況はかばかしからず。その最大の理由は立地にあり。澳門は珠江の出口に位置し、水深極めて浅し。そのため大型船の停泊に適さず。これに比して香港は十分の水深あり、大型船の停泊も可能なれば、一大港湾都市として発展せしなりと。 イギリスが香港の開発を始めしはわずか百年余り前のことなりしが、ポルトガルが澳門を植民地にしたるは四百年も前のことなり。東アジア貿易の拠点としてのみならず、キリスト教布教の拠点としても位置付けられたり。徳川時代初期に大勢のキリシタン追放せられたる際には、大挙して澳門に身を寄せしといふ。また種子島に鉄砲を伝来せしポルトガル船も、この澳門より出航して難破したる後に、種子島に漂着したるなりといふ。 澳門は経済発展については香港に後れをとりしが、それが効を奏して、歴史的な景観は破壊をまぬがれたり。特に旧市街地中心部に展開するポルトガル風の建築物群は歴史的価値高く、そのいくつかは世界遺産に登録せられてあり。これよりそれらの世界遺産を見に行くべし、とガイドいふ。 乃ち澳門半島南部旧市街地に点在する世界遺産の建築物を見物す。最初は聖パウロ天主堂なり。天主堂と言ひても、全貌はあらず、正面の壁があるのみなり。木造の建物本体は火事にて焼失し、石造のファサードのみ残りしといふ。それのみにても十分に迫力あり。 ファサードの所々に施されたる彫刻には、ポルトガル風の物あり、また中国風の物あり、東西文化の混雑物との印象を与へたり。また、天主堂の傍らには那陀廟なる施設あり。かつて疫病流行せし折、地元民天主堂当局に懇願してその用地の一角に治癒祈願のための施設として建立せしなりといふ。 天主堂前の石段を下り、聖ドミニコ教会を訪問す。ここは礼拝堂への立ち入り許され、しかも写真撮影も可なりといふ。 ついでセナド広場に至る。旧市街地の中心部にて、マカオ政庁の建物など並び立てり。それらの建物の殆どはポルトガル風の造りなりしが、広場の真ん中を飾る誂物は中国風なり。華洋折衷の奇妙な眺めといふべし。 旧市街地付近のホテルの食堂にて昼餉をなす。澳門風のバイキングなりしが味美ならず。澳門ビールのほうはまあまの味なりき。 ここにて老女の四人グループと懇意にす。この老女らツアーの当初より陽気に振る舞ひ周囲の笑いを買ひをりたり。ピーターパンなどは彼女らを四大美女と称してからかひぬ。気さくな人々なれば話題はずみ楽しきひと時を過ごし得たり。 或る老女、余が撮影ぶりを冷かしていはく、あなたの撮影するところを見ていますと、建物を写す振りをして若い女性を写したり、なかなかすみにおけませんねと。余応へていへらく、人間を写すのは風景の一部としてですよ、人間のいない風景なんて寒々としてますからなと。 |
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