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北京小紀行その四:天安門広場、紫禁殿


五月二四日(月)晴れて風あり。朝餉を喫して後バスに乗りて天安門前広場に至る。四十四万平米といふ故日比谷公園三つ分の広さなり。ほぼ中心に人民英雄記念碑立ちたり。正面に見る天安門の高さは三十七メートル、1949年10月1日、毛沢東この門の上より共産主義革命の成功と中華人民共和国の建国を宣言せり。その時広場を埋めたる人民の数は50万人ともいふ。

1989年6月には例の天安門事件出来し、民主化を求むる民衆この広場を埋めたり。その際膨大な数の戦車隊長安街より来りて民衆に襲ひ掛かり、死せる者数千とも数万ともいふなれど、その実態については未だ明らかにせられず。

天安門に向かって左側は人民大会堂、右側は毛沢東記念館なり。天安門を潜れば広大な広場ありてその先に端門立ちたり。厚さ数十米の頑丈なる門なり。端門を潜ればやはり広場あり、その先に午門立ちたり。午門より先は入場税を取らるるなり。

午門を潜ればその先に池あり、五橋架けられてあり。中央の橋は皇帝の渡る橋なり。その橋を渡れば太和門なる楼門あり。龍の彫刻おびただしく彫られてあり。楼門を潜れば宮殿区域なり。

宮殿は太和殿、中和殿、保和殿の三つの宮殿よりなれり。太和殿は天子の座所にて中央に玉座設けられてあり。中和殿は天子の控室、保和殿は宴会の場にて、科挙の殿試もまたここにて行はれたり。

宮殿区域の右手を通りて景遠門を潜ればまた広場有り。広場に面して衛生門あり、それを潜れば清朝最後の皇帝溥儀の書斎有り。孫に案内せられて書斎の中に通さる。一角に溥儀愛用の机ありて、一老人書をしたためてあり。王鴻済といひて高名の書家なる由。その老人の書を有料にて売るべしといふ。価を聞くに、四字熟語を書付たる紙に表装を施して一幅一万円なり。同行の熟女に記念の徴にとこれを求むる者あり。

その後御花苑を散策して景山に上る。宮殿の濠を掘削したる土を以て山としたるなり。やはり風水の思想に基づくなり。



景山の上から宮城を一望す、また市域を四望す、宮城の周辺はみな低層の建物ばかりにて景観頗る好し。

城宝飯店内の餐庁にて昼餉を喫す。山西料理の店にて麺が売り物なりといふ。店員大きな団子の塊を抱えて現はれ、我が眼前にて次々と切り取っては皿に投げ入れたり。味は支那そばといふより日本のうどんに近し。

食後随縁芸術館なるところに案内せらる。国立の工芸博物館なり。ここにて館員より宝石細工について説明せらる。一番価値あるものは寿山石とかいふものにて、一の工芸品を得るために山を三つつぶすほどの労を要すといふ。

一日本人その石に感銘してそれを譲り受けんと欲せしことあり。館長と直談判して値段の交渉をなすところまでいきしが、つひに決裂す。その理由はほかでもなし、日本人が賄賂を贈らざりしが故なりと館員いふ。

館員余らを一角に導き、箪笥に展示せられたる宝石の置物を紹介す。しかして余らに向かっていふ。これは売りに出すべきものなれば、賄賂の必要はなし、六点の宝物を箪笥ごと六十八万円ぽっきりにて譲与すべし、箪笥はカリンの上等材にて、日本にてはこれだけでも数十万円はとらるるべし、どう考へても掘り出し物なれば買はずが損なりと。

余適当にいひなしてその場を離れたり。余には他に目的有り、もし適当な石あらばそれを以て印鑑を作りたしと思ひしなり、都合よくその石を見つけたり、値段を聞くに彫刻を含めて三万円なりといふ、余いま少しまけろといひしが店員応ぜず、しかするうち孫現れて余に代はって交渉す、つひに2万5千円にまけさせることを得たり。

以上、この旅は楽しく過ごすことを得たり。帰路は往路を復す。北京は晴れたれど東京は大雨なりし由。家に帰りしは日付が変はりてなり。





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