中国を語る |
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北京小紀行その二:頤和園、明十三陵 |
五月二三日(日)六時に起床、雲はなけれど空色曖々たり、これ自動車の排気ガスと黄砂の仕業なり。北京の春は爽快たる空を見ること少なし、また内陸部に位置することから、温暖の差甚だし。冬はマイナス二十度以下まで下がり、夏は四十度を超ゆ、実に六十度の間を上下するなり。季節のみならず一日のうちにも温暖の差あり、今頃の季節にしてすでに三十度を超ゆる日多し。今日もまた暑くなるべしといふ。 ホテル内の食堂にて朝餉をなして後、七時半頃バスに乗りて出発す。まず頤和園を訪ふ。西太后の離宮として整備されしものにして、中国四大庭園のひとつ、世界遺産にも指定せられ、北京観光の目玉のひとつなり。 総面積二百七十四万平米、うち三分の二は人造の湖なり。中国人はこの湖を桃の花に譬へ築山を蝙蝠に譬ふ、桃は幸、蝙蝠は福を象徴す。境内長大なる廊下有り、長さ七百二十一メートル、木造廊下としては世界最長なり。廊下の到る所扁額架けられてあり、いづれも西太后直筆なり。 廊下には見物人堵をなす、見物人を相手にパフォーマンスをなすものも多し、奇声を発するものあり、曲芸をなすものあり、楽器を演ずるものあり、人をして愉しましむ。 辞去後オリンピック競技場を訪ふ、陸上競技場は蜘蛛の巣、水泳場は蜂の巣の異名有り、中国にて盛んなスポーツは卓球、庭球、籠球の類にて蹴球は人気なし、何となればナショナルチーム弱ければなり、されば陸上競技場もサッカーの試合に貸し出すことを拒否する由なり。 翡翠の工芸館に立ち寄りて後、明十三陵に向かふ。五環道路にはトラック多く走行す、運転の乱暴なる者多し、所々追尾危険の標識有り、また「司机一滴酒、我汝両行涙」なる標識もあり、酩酊運転をなすもの多かるが如し。 明十三陵とは明の歴代皇帝十六人中十三人を葬る墓陵群なり、そのうちの定陵を見物す、最も規模の大なるものにて第十四代皇帝万暦亭自らこれを建設す。国庫収入二年分に相当する巨額の費用をつぎ込み、ために国傾く、苛斂誅求に怒りし農民蜂起燎原の火の如くに起こり、明はその後わずか二十三年後に亡びたるなり。 墓陵の建設は風水思想に基づいて行はる、北に山を配し、南に水を配す、これを依山傍水といふ、風水は都市の建設から民家の建設に到るまで一貫す、実際に山水を配する能はざるときには絵画を以て代替す、中国人に山水画が不可欠なるはかかる事情によるなり。 地下宮殿を視察す。五十年前に発掘せられたる由。まさに宮殿の名に違はず規模壮大なものなり、中心部に玉座の間あり、石像の玉座の周りにはおびただしき紙幣重なりて有り、中国人の賽銭なるべし。 衛生間にて小用をたし、水道にて手を洗はんとするに珍しく自動式なり、わざわざ「手一進水自来」との注意書きせられたるは、事情を知らざるものへの配慮なるべし。 さる巨大餐庁にて昼餉をなす、飲茶料理なり、この餐庁景泰藍の工場を併設す、景泰藍とは銅器の一種なり、銅製の器の表面に微細なる銅線を張り巡らし、その上から塗料を塗り重ねて七度焼き直すうちに美しく仕上がるなり、銅線のあとは脈の如くに浮き上がり、皺の如き模様を呈す。 工場内には幾人もの職人配され、それぞれ工程にしたがって作業をなしをれり、傍らには製作途上の作品段階を追って分類整理され、また隣室には展示即売のコーナーあり。 色彩豊かに美しく見えたれば、余もまたひとつ買ひ求めんとす、しかるに目移りてなかなか決断することを得ず、そのうち店員寄り添ひ来りて余の代りに鑑定をなす、余その薦めにしたがって紅梅を描きたる壺をひとつ求むることとせり、価三万円なり。 |
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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2011 このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである |