中国を語る
HOMEブログ本館東京を描く漢詩と中国文化陶淵明日本文化ロシア情勢|プロフィールBBS


澳門より香港へ:嶺南紀行その六


九月十四日(金)晴。早朝六時起床す。ホテル内にて朝餉を喫し、八時バスにて港へ移動し、そこより高速船に乗りて香港に向かふ。昨日の船と異なり、揺るること甚だし。余俄に船酔に苦しむ。

澳門周辺の海の色は黄濁してあり。珠江の運び来りし黄土のためなりといふ。海の色は香港に近づいて初めて本来の色となりぬ。香港もまた珠江デルタの端に位置するなれど、水底深ければ黄土の沈殿を妨ぐるなり。

一時間余にして香港島の港に到着す。通関手続きをなしてロビーに至ればピーターパン出迎へに来りてあり。早速バスに乗せられてコンベンションセンター前の広場に至る。この建物は一九九七年の香港返還の際、式典会場となりしものといふ。今は集会場としては使はれず、記念物として保存せらるるのみ。前面のポールに中国国旗と香港旗並んで掲げられたり。

香港の中国への返還を地元の香港人は複雑な感情もて受け止めをる由。そのもっとも大きな要素は中国共産党の統治に対する反感なり。共産党の統治は法治に非ず人治にして、賄賂の横行と人権の弾圧を伴ふ。これ香港従来の民主主義的体制に比すれば一世代遅れをるといふが香港人の感想なり、とピーターパンいふ。

コンベンションセンター前の波止場よりフェリーボートに乗り、対岸の九竜半島に向かふ。船上より香港島と九龍半島の街並を低角度より見ることを得る。

フェリー埠頭よりバスに乗りて尖東広場に至り、中華彩酒店内の食堂にて昼餉をなす。ワンタン麺、大根餅、青梗菜の炒めもの、小籠苞数種なり。香港ビールは大瓶一本50ドルなり。



食後バスにて黄大仙に至る。法輪功の寺院なり。法輪功は中国本土にては邪教として禁止迫害せらをれど香港にては合法的に活動しをるやうなり。ただし、付近には法輪功邪教などと記したる壁紙を見かけたり。

境内の一角に卜占所の集まるところあり。中国人は参詣の後おみくじを求め、その意味するところを卜占師より聴くといふ。ピーターパンによれば卜占師のいふことは尽く出鱈目の由なり。



その後九龍寨城なるところに立ち寄る。香港市内の無法地帯として知られしところなり。イギリスが香港を租借したる折、どういふ訳かこの一角のみは租借の対象とならず、清国の飛地として残さる。ところが清国は此処を管理する意思を示さざれば、いつとはなく無頼漢の集まる処となり、巨大な悪の巣窟と化せり。一時は違法建築群天を衝いて櫛比し、その中に膨大な数の無頼漢住みをりしが、香港の中国返還を機に城内一掃せられ、今は公園として開放せらるといふ。

公園内至る所に槇の木植えらる。槇の木は中国にては縁起の良い木として珍重せらるといふ。日本は槇の産地なれば中国人ブローカー日本中槇の良木を求めて歩きまはり、形良きものを見つければ金に遑をつけず求めんとすといふ。

夕近く一旦オテル・ニーナに戻りて小憩す。ロビー内大勢の団体客を見る。インドネシア人なり。インドネシア人の女性はイスラム風のショール被りをれば一見してわかるなり。

この旅の途中、香港市内やら澳門にて度々彼らの姿を見かけたり。インドネシア人は勤勉な民族にしてひたすら働くのみと思ひをりしが、最近は海外旅行をなし、高価な土産物を求むるやうになりしが如し。これ彼らが豊かになりたる証拠なるべし。


いまより二十年以上も前、余は職務出張に従ひインドネシアを訪れしことありしが、その折のインドネシアは国全体が貧しく見えたり。人々は黙々と働き、祈りの時間が来ればコーランの調べにあはせて膝まづき、右手の指を用ひて食事をなしゐたり。

しかるに此度目にしたるインドネシア人は、挙動にゆとりあり。正午過と言へど昼餉の時間に膝まづくことなく、手づからものを食ふことなく、箸を操り食事をなしてあり。余時代の推移を感ぜずんばあらざるなり。





HOME次へ









作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2011
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである