中国を語る
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中ソ国境紛争:毛里和子「中国とソ連」

毛里和子著「中国とソ連」を読んだ。書かれた時点は1989年の初めごろで、中国では天安門事件が起きる直前、ソ連ではゴルバチョフのペレストロイカが始まった頃だから、今日の状況とは隔日の感があるが、中露関係を歴史的な視点で見る上では参考になる。

毛沢東が中華人民共和国の建国を宣言して以来、中国はソ連を手本にして社会主義建設を進めたが、いくばくもなくして両国は深刻な対立関係に陥った。その基本的な理由は、社会主義をめぐる路線対立が生じたことと、両国間の国境を巡る紛争が表面化したことだ。とくに国境紛争が両国の関係を深刻なものにした。そんな事情が、この本からは強く伝わってきた。

そこで、この本の記述によりながら、中ソ国境紛争の歴史的意味合いについておさらいをしておこうと思う。

中露の間で初めて結ばれた条約は1689年のネルチンスク条約だ。これによってロシアと清国との間の国境が明確にされ、満州における国境線は外興安嶺(スタノヴォイ山脈)の線にひかれた。

その後1727年にはキャフタ条約が結ばれ、外モンゴルの中国への帰属が明確になったほか、両国間の貿易に関する取り決めなどが行われた。

このネルチンスク、キャフタ体制はその後の中露関係の基本になったが、ロシア側が関係強化に熱心だったのに対し、中国側は不熱心だった。それのみか、ロシアとの関係を対等な国際関係ではなく、朝貢として位置付けていた。

19世紀半ばになると、ロシアによる中国侵略の意図が露骨になる。1858年には病める大国となった清国を威嚇するようなかたちでアイグン条約を結ばせ、アムール川の左岸一帯約45万平方キロメートルを清国からもぎ取った。更に2年後の1860年には北京条約を結ばせ、ウスリー川以東の沿海州を清国からもぎ取った。

以後中国側では、これらの条約は武力を背景に強要された不平等条約であり、ロシアによる領土の侵略だと主張するようになる。

そのロシアで1917年にボルシェビキ革命が起きると、「ソビエト政府は、中国から満州その他の地方を奪い取ったツァー政府の行ったすべての侵略を否認する」とするいわゆるカラハン宣言を出したが、この宣言はその後うやむやになってしまった。

毛沢東の中国政府は、ソ連との関係が密接だった時には国境問題を提起するのを遠慮していたが、1950年代末に中ソ対立が始まったことを受け、1960年から領土問題を持ち出すようになる。

中国側の主張の基本線は、アイグン、北京両条約は不平等条約であることをロシア側が認めたうえで、それらの条約によってロシアに帰属した土地は本来中国の領土であることを認めること、とはいっても現在ロシアが実効支配している事実を尊重し、現行の国境線を受け入れる、ただし河川国境については、主要航路の中心線を国境線とすることを基本に、河川に点在する数百の島について、その帰属を明確にしたい、というものだった。

1969年に勃発した珍宝島(ダマンスキー島)事件は、この河川国境をめぐって起きた国境紛争である。

この国境紛争は、中ソの両者に相手への敵対意識を高めた。黒竜江上のゴルジンスキー島や、新疆ウィグル地区でも国境での武力衝突が続き、両国は激しく非難しあった。特に中国は、ソ連のやり方は旧ツァーのロシアと同じであり、露骨な侵略行為だと激しく非難した。

緊張が続く中で、中ソ国境には両国の軍が増強された。ソ連側は最大45師団、中国側も85師団といった具合に、エスカレートしていき、一触即発が大戦争に発展しかねない勢いだった。実際中ソの戦争は間近いとする憶測が、ソ連にも強い勢いをもっていた。その空気をソルジェニーツィンが次のように書いている。

「今後10年ないし30年の間に我国が当面するだろう主要な危険は・・・中国との戦争であり、汚濁された地球の狭隘と悪臭のなかで、西欧文明とともに滅び去る運命である・・・この通常戦争は、人類が行ってきたすべての戦争の中でもっとも長期にわたる、もっとも血なまぐさいものとなるだろう・・・第一次大戦でロシアは150万人を失い、第二次大戦では2000万人を失ったが、中国との戦争は6000万人より安くつくことはあるまい」(クレムリンへの手紙「江川卓訳」)

中国の対米、対日接近は、こうした中ソ間の厳しい対立が背景にあったわけである。

中ソが緊張緩和にむけて動き始めるのは、ゴルバチョフが政権を握った1986年以降のことである。緊張緩和の動きに乗って国境問題も再び議論されるようになった。中国側は、上述した原則に従って国境問題を解決しようとした。ソ連のほうもそれにこたえる形で、河川国境については主要航路の中心線とすることに合意する姿勢を見せた。これによれば、珍宝島をはじめ現存する河川国境上にある数百の島の殆どが、中国側に入ることとなる。

この本は、ここまでのところで終わっているが、中露の国境問題はソ連崩壊後の中露間の交渉で進められ、その結果1991年に満州地方を対象にした中露国境協定が締結され、珍宝島をはじめ多くの島が中国領となった。ロシア側は、従来の主張を弱めて、中国に配慮する姿勢を示した形だ。

1994年には中央アジア地域を対象にした中露国境協定が結ばれ、2004年には懸案だった島々の帰属を定めた国境協定が結ばれて、ここに中露間の国境問題は最終的に解決されたと宣言された。





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