中国を語る
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天安門事件の背景

1989年におきた天安門事件は1978年に始まった改革開放路線のひとつの中間帰結だったとみることができる。(南亮進他「中国経済入門」)

改革開放路線によって経済の自由化が進み、それまでは土地に縛り付けられていた人々の移動も盛んになった。自由化によって経済活動が活発化すると同時に、公有財産の処分や経済活動をめぐる官僚の腐敗も激しくなった。

こうしたなかで、1988年から1989年にかけて経済の過熱が激しいインフレを引き起こした。インフレによって生活を脅かされた人々は、その元凶を役人であるとし、腐敗役人の追放とともに、民主主義の強化を求めた。すなわち共産党一党支配に反対し、議会制民主主義と三権分立を要求するまでになった。経済への不満が政治問題化したわけである。

1989年の4月から6月にかけて、連日天安門広場に100万人ともいわれる人々が集まった。これに対して当時の総書記趙紫陽は一定の理解を示したが、ケ小平にとってはとんでもないことだった。彼にとっては共産党支配が保障される範囲でしか自由化はありえなかったのだ。

ケ小平は趙紫陽を解任し、人民解放軍にデモ隊の徹底的な弾圧を命じた。こうして6月3日の夜から4日の未明にかけて、天安門前広場に続々と戦車が終結し、おびただしい数の死傷者を出す大惨事となった。

この事件をきっかけに、ケ小平は経済の引き締めに取り掛かり、インフレを終息させることを優先したために、経済活動は一時停滞した。だが1992年の南巡講和をきっかけに、再び改革開放路線を勧め、それ以後驚異的な経済成長を続けることができた。

天安門事件を公にとりあげることは、中国にとってはいまだにタブーとなっている。ケ小平は後にこの事件を振り返って、「もしあの時政府が妥協し、政治的民主化への道を歩んでいたら、政治は不安定化し、その後の発展はなかったかもしれない」と述べたそうだ。

経済は再び発展したが、官僚の腐敗もまた規模を大にして繰り返された。中国の官僚たちの汚職はとにかくスケールがでかい。日本の役人の比ではない。対抗できるのはロシアぐらいだろう。

中国の官僚腐敗には次のような特徴がある、と羅歓鎮氏はいう。

1 まず数が多い。1992年から2002年までの10年間に150万人以上の共産党員が汚職事件で処分を受けた。
2 賄賂の金額が桁外れに大きい。都市労働者の平均年収1万元に対して100万元から数千万元以上といった桁外れの賄賂をもらったものが多数いた。
3 高級官僚の占める割合が大きい。1の被処分者のうち、県クラスの幹部約5万人、局長クラス4000人、大臣クラス176人が刑事罰を含む重い処分を受けた。
4 腐敗には女性が絡むケースが多い。官僚たちは女を囲む資金ほしさに賄賂を取り、女が賄賂収受の橋渡しをするといった具合だ。

役人の腐敗はいまでも中国社会をむしばんでいる最大の問題だ。胡錦濤もそのことを認めて、役人の腐敗には断固とした姿勢で臨むとしているが、高速鉄道の建設を巡る高級官僚の腐敗と、それがお粗末極まる事故につながったように、なかなか断ち切るのが難しいというのが現実のようだ。





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