中国を語る |
HOME|ブログ本館|東京を描く|漢詩と中国文化|陶淵明|日本文化|ロシア情勢||プロフィール|BSS |
烏鎮散策:呉越紀行その八 |
十一月十二日(土)晴。七時に起床して窓より外を見れば周辺は高層建築物の建設ラッシュなり。中国は無錫の如き都市も近代化の恩恵に与りをるやうなり。建築現場の柵には創建文明城市、?建和諧錫城の文字墨書せられてあり。 九時に無錫を発し、杭州を指して進む。途中休息所にて江南地方の地図を買ふ。江蘇、浙江、安徽三省の区分地図なり。一見するに、かつて存在せし「地方」の行政区分は消滅し、省はすべて市を以て構成せらるることに気づく。 また厠に入るに、便器の上に前進小一歩、文明大一歩と記されてあるを見て失笑す。文明は陽物の先端より始まるものの如し。 このあたりは、江南典型の水田地帯にて、あちこちに水たまりと水田を見る。水田の合間には所々家畜を放牧する様子見られたり。粗末な柵の中におびただしき数のあひるやら鶏を放し飼にするなり。これでは野鳥との接触野放しになり、鳥インフルエンザの流行を暴圧することをえざるべし。 午前十一時頃烏鎮に至る。烏鎮は京杭大運河畔に展開する江南水郷地帯有数の古鎮にて、その歴史は唐の時代に遡るといふ。宋代には養蚕業の発展によって町の経済力高まり官僚や文人別墅を構へたりといふ。近代以降凋落し放置せられてをりしが、ここ十年ばかりの間に修理復元せられて江南有数の観光地とはなれり。 観光地帯は大運河を挿んで東西にあり。まづ東柵最初に観光地としてオープンし、次いで西柵オープンす。規模は西柵の方が大なり。 余らは東柵を散策せり。狭き石畳の道を挿んで白壁の家連なり極めてエキゾティックなり。家と家の間には写真の如き防火壁を設く。中国風のうだつといふべし。道の横腹に開けた小路の先には運河覗き見えてあり。 江南百床館なるところに入る。中国風のベッドを展示してあり。また中国伝統の結婚式の様子を表現したる人形の仕掛けあり。花嫁は角のみならず顔全体を隠し、家具を持参して嫁入りするなり。家具のうちにも寝具は最も重要にして、なかでも立派なベッドは花嫁の実家の経済力を物語るなり。 次いで藍染の施設やら木彫り彫刻などを見物し、茅盾故居を過る。上海女史に茅盾の中国語読みを訪ぬるに、マオトゥンといふ由なり。余日本語にてはボウジュンといふなりと注釈す。 正午頃、散策路は人で充満す。身動きもできぬほどにて、予約せる食堂も満員なる由。仕方なく席があくまで散策を続けしが、風景は人の目を楽しませ、退屈することはあらざりき。 一時頃翰林府第なる餐庁に入る。餐庁とはいひても田舎料理を供する小さな店なり。されどかへって旅情に富みたり。 客が去りし空卓には食ひ残し散乱し極めて見苦し。日本人の感覚からすれば無礼狼藉の限りといふべし。されど台湾女史がいふには、中国人は食べ残しをテーブルの上に残し置くを無礼とはせざる由なり。 ここにて、豚肉、鮒、蛋、がんもどき、青梗菜、空芯菜、キャベツの料理のほか、カレー風味の炒め物やらジャガイモの千切り炒めなどを供せらる。デザートにはサトウキビを出されしが、余は上手に食ふことを得ざりしなり。 食後再び運河沿いを散策しバスの停留所に戻りたり。 |
前へ|HOME|中国旅行|次へ |
作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2011 このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである |