中国を語る |
HOME|ブログ本館|東京を描く|漢詩と中国文化|陶淵明|日本文化|ロシア情勢||プロフィール|BSS |
水郷の古鎮錦渓:呉越紀行その二 |
十一月十日(木)陰。七時に起床して一階の食堂にて朝餉をなし八時半酒店を辞す。この日は水郷の古鎮錦渓を経て蘇州へ至らんとすなり。 途中の車内康康また身の上話をなす。大学卒業後日本語にあこがれて一端は日本資本の会社に就職せしが、期待に反して日本人と交はる機会なし、その上仕事も面白からざればさっさとやめて、今の仕事につきたるなりと。 案内人の仕事は決して高給には有らざれど仕事自体は屈託なし。給料も八万円ほどなれば、普通の中国人に劣らず、かへって平均よりは高し。さうはいひても、御嬢さんと結婚するには到底及ばざるなり。中国は何事も金次第の世の中にて、金がない人間は数のうちに入らず。金さへあれば六十過ぎの老人でも嫁さんは選び放題なり。 金回りの良い連中の筆頭は実業家と役人なり。実業家は自らの腕を頼んで金を稼ぎ、役人は賄賂で私腹を肥やすなり。 康康は僅かの給料にてその日暮らし、貯金もなく家もなく車も持たざれば、女は愚か誰からも相手にされず、日本に行きたいと願ひ出ても、日本の領事館からは相手にされず。仕方なく韓国やタイに代理旅行をして気を紛らすが関の山なり。 錦渓は上海の西方約六十キロのところにあり。五保湖なる湖沼とそれに接する数多くの運河に囲まれたる古鎮なり。南宋の時代陳妃こよなくこの地を愛し、死して後五保湖に水葬せらたる故事にちなんで、もと陳墓と称されをりしが後世に及んで錦渓と改称せらるといふ。 運河に囲まれたる一角に蓮池禅院なる寺院あり。禅寺とはいひても日本の禅寺とは大いに趣を異にせり。日本の禅寺は閑寂なる雰囲気の中に釈迦や観音の像を安置するに対し、ここの禅寺はけばけばしき極彩色の中にまがまがしき天王像屹立するなり。 古鎮の中心部は上塘街といひて、運河沿いに石畳の道通じ、道を挟んで白壁に黒屋根を載せたる民家整列す。民家の多くは土産物を売るやら宿を営むやらそれぞれ成業をなしてあり。単なる骨董的の存在には止まらざるなり。 運河には客を乗せたる船行き交い、櫂をとる女綿々と歌ひつつ船を操る、頗る風情あり。 また運河の岸辺に下りて洗濯をなす者あり。運河はただに輸送の器たるにとどまらず、生活に必要なる水を供給すると見えたり。 上塘街の一角に春宮館なる古美術館あり。その名の如く春画や玩具の類を陳列してあり。未成年人不得入内と記されたる扉をくぐれば、写真のごとき玩具を多く見る。ひとつひとつ精巧にしてかつ機微に富みたり。見るものをして思はず失笑せしむるなり。 また美術館の中庭には割地求和国恥史と墨書したる一角あり、そこに蒋介石以下国民党の巨魁たちを罵る如きものを陳列してあり。その中に宋三姉妹の写真あり。彼女らが何故売国の徒とせられしか、余はその所以を解せざるなり。 万千湖酒楼なる餐庁に入りて昼餉をなす。農家菜といひて地元の郷土料理を供するなり。この日は、鮒の煮もの、小魚の揚げ物、豆腐の炒め物、鶏肉料理のほか、青菜、蛋、ハルサメ、白菜の料理などを供せらる。ビールは雪花といふ銘柄にて酒精度僅に三度ばかりなり。されば水を飲むが如くスムースに喉を通るなり。 とまれ余は外国に旅行してかかる田舎料理の店に入るは初めてのことなれば、大いに興趣を感じたり。 |
前へ|HOME|中国旅行|次へ |
作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2011 このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである |