中国を語る
HOMEブログ本館東京を描く漢詩と中国文化陶淵明日本文化ロシア情勢|プロフィールBSS


江南小紀行その三:蘇州観光(寒山寺、錦江運河、拙政園ほか)


四月十三日(月)陰、時に雨。この日は蘇州観光をなす。蘇州は古くから江南呉の都として大いに繁栄せるところなれば名所旧跡多し。しかも水の都にして、運河網の目の如く走り、風光頗る明媚なり。かつてこの地を訪れたるマルコ・ポーロが東洋のヴェニスと讃へたることはいふまでもなし。

八時半李迎へに来り、黒塗りの大型車に乗り込みて高速道路を西へ向ふ。蘇州までは百三十キロ、一時間半ほどの道のりなり。途中両側に広がる市街地を見下ろすに、近代的街区に挟まれて古びたる建物群現る。李がいふに、これらは千九百二十年代に作られたるマンションの由。かつては市内至るところに見られしが、近年次々と棄却されて超高層建築に建て替へらるるなりといふ。

中国にては土地の私有は原則として認められず。すべて公有地なり。しかれば日本の如く地権は強固ならず。政府の都合によって、簡単に収用せらるるなり。

上海市街を出づること三十分ほどして農村的風景現る。されど純然たる農村風景にはあらず。田園の合間にはかなりの密度にて建物群並び立ち、またところどころ工場団地やら高層建物も混じりたり。李に聞くにこれら高層建築はほとんどがマンションの由にて、上海、蘇州、無錫の金持が所有しをる由なり。彼らはこれら郊外マンションにて週末を過ごすことをステータス・シンボルと考へをるなりといふ。

十時頃蘇州市街に入る。横子のたっての希望により、まず蘇州駅前を視察す。子二年ほど前に訪れたる折、駅前の再開発施工中にて、古びたる建物群の取り壊さるるを目撃せしといふ。その跡がいかなる様相を呈しをるか是非確認したしなどいひをりしが、見れば広大な広場あるのみ。



十時半頃寒山寺に至る。錦江沿の広大な寺院なり。門前運河上には江村、楓の両橋架かりてあり。いづれも石橋なり。ここにて李、張継のかの有名な七言絶句を日本語にて読誦す。曰く「月落ち烏啼いて霜天に満つ、江楓漁火愁眠に対す、姑蘇城外寒山寺、夜半の鐘声客船に至る」と。ちなみに詩中「江楓漁火対秋眠」とあるのは、この二つの橋と川に浮かぶ漁火を歌ひしなり。

寒山寺はいふまでもなく、寒山拾得ゆかりの寺なり。またかの空海が禅宗を学びたるところなり。かかる因縁から日中友好の象徴のごとき存在となれり。千五百年前六朝時代に立てられて以来十三度も消失し、その度に復興せらる。現存する五重塔は日本人の寄付するところといふ。

本堂は大雄宝殿といひ釈迦を祭りてあり。弘法堂には玄奘三蔵を中心にして右手に鑑真、左手に空海の像あり。寒山拾得は寒拾殿なる堂に祭られてあり。また韋駄天の像あり。中国にては料理の神様なる由。日本人がいふところの御馳走様とは韋駄天の別名にて、千里を一瞬のうちに走るの意といふ。

普明宝塔なる五重塔に上る。二階までは土足のまま侵入しうるなり。時に細雨瀟条として降り来る。



江村橋傍らの船着場より船に乗り錦江運河を進む。蘇州に数多き運河の内にも幹線といふべきものにて、川幅は平均二十米ばかり深さは三米ばかり、揚子江に通ず。両岸には柳条水面に影を落とし、桃花今を盛りと咲き綻びたり。ややして市中繁華の中に入る。両岸石造の建物川にせり出し頗る珍妙の眺めなり。時に小船のすれ違ふものあり。また川端に下りて洗濯をなすものあり。李がいふに、この運河は単に水運のみならず、人々の生活用水としても機能しをる由。

船が進むにつれ両岸の風景様々に変化す。川幅狭きところは両手の建物そびえて見え、川幅広きところは悠々たる趣を呈す。岸に柳など生えたるを見れば、折からの煙雨に霞みて、宛も墨絵を見るが如くなり。

四十分ほど船に乗り、虎丘にて下船す。丘上に一の斜塔あり。やや右の方向に傾斜す。その角度五度余りといふ。地盤の硬度均一ならざるによって、長年の間にかくも傾きたりといふ。

蘭莉園刺繍研究所に立ち寄りて蘇州名産の絹の刺繍を見物し、パンダの置物一点を買ひ求む。その後市街中心部を走り抜けて松鶴楼なる蘇州料理店に赴く。途次市街の風景を見るに、上海とは異なりて地方都市の趣あり。路上人力車やら輪タクの類溢れ、人も車もほとんど信号に従はず、銘々勝手に往来す。ために交通すみやかならず、車を運転するものはクラクションを高々と鳴らし、歩行者を威嚇しながら進む有様、異様に覚えたり。

蘇州料理は川魚を主体とするものなり。この日のメニューは鰻の子をスープ風に煮たるもの、鱸をから揚げにして餡をかけたるもの、ザリガニの炒め物などなり。また前菜に鳥の皮の如きものあり。何とも不思議な味故、メードに向ってこれは何ぞと、北京語もて尋ぬるに言語通ぜず、やむなく筆記せしむるに「蹄筋」と書きぬ。どうやら豚の蹄のやうなり。この店上海に比すれば値極めて廉し。鼎泰堂にてはビールの小瓶三十元たりしところ、ここは中瓶が十二元なり。



午後三時頃拙政園を訪ふ。中国四大庭園の一にして世界文化遺産なり。明代正徳四年(1509年)王献臣なるもの造営す。名称には政府を非難する意味ありといふ。ここも預園同様黒龍を飾りゐたり。

庭園楚々として池には虹橋かけられ、牡丹躑躅など咲き乱れたり。また木立の紫陽花黄緑色の花をつけたり。李に向って紫陽花を中国にては何といふかと尋ぬるに「シーヤンフア」といふ由なり。紫陽花はもともと日本原産の花なれば、中国にても日本風の名を用ゐると見えたり。

黄昏ホテルに戻る。先ほど蘇州にて注文せる瑪瑙の印鑑届けられてあり。字体を確認するに「壺齋散人」とあるべきところ「壺齊散人」とあり。余これでは意味が違ふと、彫り直しを命ず。

案内人の李はこれを以て役目終了なりとて辞去せり。この男多少せっかちなところありて、スケジュールに拘泥するあまりに、余らをせきたてる場面しばしばあり。余らはそのたびに食事もそこそこに席を立てり。されど説明熱心にて事情に疎きものには便利なりき。余はこの男よりしばしば中国語の発音を学ぶことを得たり。

一昨日のスーパーに赴き買物をなして後、ホテル内の広東料理店にて夕餉をなす。今宵は李にせかさるる恐れもなければとて、紹興酒を飲みながら悠々と食事を楽しめり。時折窓外を見るに、雨はやみたるやうなれど、強風樹木を吹きて台風の如くなり。

晩間は部屋に閉じこもりて、ウィスキー嘗めつつ歓談。折からテレビは中国の経済状況を解説す。曰く、政府の財政出動は此度の経済出現を前にしては雪上の霜の如しと。

(写真説明)上:錦江運河 二番目:寒寺山 三番目:錦江運河 下:拙政園





HOME中国旅行記次へ









作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2011
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである