中国を語る |
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中国流実効支配 |
尖閣諸島をめぐる最近の中国の動きが気になるところだ。一時は日中間の武力衝突まで懸念された。最近はそういう心配は和らいだようだが、中国の公船は毎日尖閣周辺を巡行し、時たま日本の領海に侵入したりもして緊張を高めている。中国側ではこれを、正当な法の執行であると強弁し、素直に立ち去ろうとはしない。かえってこうした行為を繰り返すことで、尖閣に対する実効支配のアピールを目論んでいるかのように見える。 こんな中国側の動きを見て、筆者はいつか読んだ陳舜臣氏の中国史の一節を思い出した。何せ膨大な著作(全7巻)なので、詳細は覚えていないが、氏はあるところで、中国はルールより既成事実が優先する文化を持っている、というような意味のことを言っていた。 中国では、王朝が交代するたびに巨大な都が造営され、道路や公園が整備されるが、折角つくられた立派な道路も、時間の経過とともに、狭くなっていくのだそうだ。道路の両側に家を構える人たちが、道路の一部を私的に利用しているうちに、いつの間にかそれが既成事実となって、道路が狭められてしまうというのである。道路はただ狭くなるだけではない。蛇道のようにくねくねと曲がってしまう。沿道の住民たちがむやみやたらに道路を占領することの結果だ。 つまりルールよりも必要が、法律よりも既成事実が優先するということだ。無論、ルールが社会生活の必要性から、法律が既成事実の尊重から生じる場合もあるが、中国の場合には、歴史的にルールや法律が余りにも軽く扱われてきた側面があるというのである。 これを国家間の関係にあてはめると、国際法上のルールよりも力の行使に基づく既成事実化が重んぜられるということになる。 尖閣問題を巡って、日本側が所有権の(民間から国への)移転という法的措置をとったことに対して、それに対抗する方法として、中国は公船による巡回を既成事実化させることで、尖閣に対する主権のアピールを強化させているフシがある。これは力による対抗といえる。 チベットやウィグルに対する中国の行動にも同じような傾向を見て取ることができる。民族自決とか、伝統とかいって少数民族がすねている間に、それらの地域に漢人を大量に送り込んで、事実上漢人中心の社会にしてしまえば、そんな不満は無視できるほどのものになってしまうに違いない。正義よりは力が優先する、というわけだ。 日本人にとっては奇異に見えるこうした行動も、陳舜臣氏のいうような視点から見れば、奇異でもなんでもないということになる。彼らは彼らなりに、自分たちの馴染みの論理に基づいて、真剣になっているわけだ。 |
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