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日本の台湾統治:後藤新平の植民地政策

日本が台湾を領有したのは明治28年(1895年)、日清戦争に勝利した戦利品としてだった。それ以来、昭和20年(1945年)の敗戦によって領有権を放棄するまでの50年間、台湾を植民地として統治した。

台湾に限らず、戦前の日本は朝鮮半島を属国にしたほか、旧満州や南洋諸島を実質的に支配した歴史を持つ。こうした歴史は今日では多くの日本人の意識の中からあらかた消え去ってしまい、時折、敗戦による混乱の中で命からがら祖国に引き上げてきた人々の苦労話が伝えられる程度だ。その一方で、日本がこれら植民地に対してどのようなことを行ったのかについては、表立って問題にされることはほとんどなかった。

そこへ先日、NHKが日本統治下の台湾についての報道番組を放送した。日本人側の視点のみではなく、台湾人の視点から見た統治の実情を、それなりにあぶりだそうとするもので、非常に興味深く見たところだ。

日本にとって、台湾は始めての植民地だった。当時の日本は、植民地政策のノウハウなどは全く持っていない。そんなわけで領有当初は台湾の内政は混乱し、樟脳の生産を始め主要な産業は大いに停滞した。そんな中で、台湾での植民地経営をどのように行っていくべきか、イギリスやフランスなど先進諸国(?)の例を参考にしながら、暗中模索が始まったようだ。

このときに大きな役割を果たしたのが、後藤新平だった。後藤は後に東京市長や内務大臣などを歴任し、とりわけ関東大震災後の復興計画に大きな足跡を残した人物だ。そんなところから、日本では都市計画の関係者の間で、神様のようにあがめられている。その後藤が台湾総督府の民生局長として、台湾に対する植民地政策のレールを敷いたというのだ。

台湾領有は、明治憲法が発布されてから5年後のことだ。法治国家の理念からすれば、植民地経営も憲法に基づいて行わねばならない。ところがその憲法は、植民地領有の事態を全く予想していなかったので、台湾の住人をどのように位置づけるべきなのか、指針が得られない。

そこで台湾人も擬似日本人として想定し、日本人同様の法律を適用すべきなのか、それとも憲法の枠外に特別法を作り、台湾人を非日本人として支配すべきなのか、そこが法的な問題として浮かび上がった。

後藤新平は1898年に台湾総督府民生局長に赴任するや、民生の最高責任者として、日本人と台湾人の分離政策を遂行した。日本人を一級市民とし、当時台湾に多くいたとされる琉球の人々を二級市民とし、台湾人を三級市民として、徹底的に分離・差別する政策をとった。学校や公共施設の利用も差別した。日本人は統治する人種、台湾人は統治される人種という構図を築き上げたわけだ。

匪賊刑罰令という特別法を作り、日本人が与えた秩序に従わないものは、たとえ軽微な罪でも死刑にした。発布後5年間でこの法律を適用され死刑になった台湾人は3000人にのぼるという。

後藤新平は台湾人を語って「ヒラメの目をタイの目にすることはできない」といったそうだが、そこにはこの男の根深い人種差別意識が反映されているともいえる。

一方後藤新平は、台湾経済の発展に力を注ぎ、一時衰退していた樟脳の生産を復活させた。基隆を海外輸出向けの港として整備し、そこから欧米に大量の樟脳を輸出することに成功した。その辺は、後の東京改造計画を予想させる、この男の能吏としての一面がのぞいているともいえる。

ともあれ、日本人が直接統治しながら、日本人と台湾人を分離・差別する構図は、その後の日本の台湾統治の大きな枠組みとなる。後藤新平はその枠組み作りに大きくあずかったということになる。

昭和に入り、軍部が政治の実験を握るようになると、こうした流れに変化が起きる。軍部は憲法の規定を盾にとって、台湾人も天皇の臣民、つまり皇民だといいだした。その背景には、台湾人を日本の軍人として動員したいとする思惑があったものと思われる。実際戦争末期には、21万人の台湾人が日本兵として動員されている。

軍部は、台湾人も日本人に同化することを求めた。台湾の土地のいたるところに神社が立てられ、台湾人に対する日本語教育が強化され、姓名を日本風に変える改姓名が強要された。

日本の軍部はこうした動きを、台湾人を野蛮な状態から解放し、日本人並みの文明人にするとともに、天皇の忠実な臣下にするためだと強調していた。

それを当の台湾人がどう思っていたか。NHKは、日本統治下の台湾で暮らし今日まで生き残った多くの台湾人を登場させて、その思いを語らせていた。

筆者はこの番組を見ながら、数年前に訪れたインドネシアでの見聞を思い出した。インドネシアも一時期日本の支配下に入った歴史を持っている。そして台湾と同じく、表面的には親日的である。だからといって心から日本人が好きなわけではない。

インドネシア人は長らく自分たちを支配してきたオランダ人を心の底から憎み、彼らを赤鬼と呼んでいた。だから日本人がオランダ人を追い出したとき、インドネシア人は喜んだこともあった。しかしそのうちに日本人は、インドネシア人に対して、支配者として横柄な態度を丸出しするようになり、その上日本風の文化まで押し付けてきた。そこで彼らはオランダから日本への支配者の交代を喩えて、「赤鬼がいなくなって、小人の鬼がやってきた」とささやきあったのだそうである。

ある民族が他の民族を支配して隷従させることは、どんな理屈を以てしても正当化されるものではい。この当たり前のことを、この番組は改めて気づかせてくれた。





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