中国を語る
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中国型社会主義市場経済

1980年代以降の中国経済の発展ぶりはまさに目を見張るものがあった。21世紀になると発展の速度は更に高まり、ここ10年余りの間一貫して年率10パーセント前後の経済成長を続けてきた。その結果GDPで日本を上回り、アメリカに次いで世界第二の経済大国にのし上がった。

同じく社会主義を標榜していながら、旧ソ連圏や東欧諸国が経済の低迷に苦しんだのに対して、何故中国は高い経済成長を謳歌できたのか。その辺の事情を知ろうと思って、南亮進、牧野文夫編「中国経済入門」を読んだ。

編者らは中国経済のキーワードを「社会主義市場経済」といいあらわしている。全体的な枠組みとしては社会主義的所有制度を維持しながら、経済活動の内容としては可能な限り市場のメカニズムを取り入れるというものだ。

このことは計画経済から市場優位の経済へ、国家による所有とそれを背景にした公営企業から民間の自主的な企業が自分の責任において経済活動を行う社会への移行を意味している。経済活動の実質は普通の資本主義的市場システムと異ならないが、政治的な枠組みとしては共産党の一党独裁を守る、簡単にいえばこういうことのようだ。

中国はこの移行を注意深く行ってきた。すこしづつ経済活動を自由化し、その成功を踏まえて次のステップに移る。これを繰り返すことで斬新的に体力をつけ、最後にはほぼ完全なかたちの市場経済を確立する。それでも、共産党の支配はゆるぎない、土地をはじめとした生産資源の公有や、株式会社の株式を所有しつづけることにより企業への影響力を担保するといった政策によって裏付けているからだ。

ここがソ連や東欧などと決定的に異なるところだ。ソ連や東欧は、ビッグバンと呼ばれるような急激で過酷なやりかたで、一気に市場経済のメカニズムを導入しようとした。だがそのことで経済は混乱し、国民生活は深刻な危機に陥った。ロシアなどは、その危機のなかならプーチンという新しい独裁者の登場を許したといえる。

中国が市場経済化を目指すのは、ケ小平が1978年に打ち出した改革開放路線以降だ。1980年代を通じて、企業活動や市場システムが斬新的に改革された。1992年にはケ小平のいわゆる南巡講和が出され、改革開放が加速する。深仙などの経済特区の建設を通じて積極的に外資導入を図った。それ以降中国経済は、東アジア危機やリーマンショックなどを乗り越え、確実な成長を遂げてきた。

ケ小平がまずやったのは、企業改革だ。改革開放以前の企業はすべて国有国営で、経済官僚の作成する計画に従って生産活動を行ってきた。そこには個別企業のイニシャチヴが働く余地がなかった。それが経済活動を硬直化させ、資源の有効配分に失敗したことは、社会主義経済に共通した悩みだった。

ケ小平は、企業に一定の自主性を認めた。企業を計画によってしばり、余剰な利潤をすべて国に吸い上げるのではなく、計画によって示された一定の生産物を収めれば、残りの剰余部分は企業が勝手に処分できるシステム(請負制)を導入した。次の段階では、私営企業を自由化し、それらの企業が外国企業と合弁を組むのも可能にした。

こうした企業改革と並行して、市場改革を推し進めた。それまでの計画重視から商品価格をつうじた市場メカニズムを重視するようになっていった。

1992年の改革の加速は、中国経済の市場経済への移行をほぼ完成させるものになった。この結果社会主義市場経済というシステムが全面的に出現した。これは次のような特徴を持っている。

1 生産財の所有形態は、公有を中心にしながら、個人所有も認められた
2 国有企業を株式会社化するなどして、現代的な(資本主義的な)企業制度を確立した
3 国内統一市場の形成によって、消費財、生産財市場を拡充し、金融市場、労働市場などを育成しようとした
4 計画によって直接に経済活動をコントロールするのではなく、金融、財政制度等のマクロ的な調節機能を使って、間接的に経済活動をコントロールしようとした

これらはすべて、普通の資本主義国で行われていることである。違うところは、中国ではまだ公有の割合が高いということだ。

国有企業や公営企業がいまだ経済の多くの部分を担っている。株式制の企業についても半分以上は政府の財産管理部局によって株式が保有されているといった具合だ。

中国はだから、いま過渡期の資本主義経済であるといってよいかもしれない。それが長い目で見て強みとなるのか、弱みとして働くのか、今後の推移をみるほかはない。





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