中国を語る
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杭州西湖散策:呉越紀行その九


午後三時頃杭州市街に入る。余にとって杭州の名はかの蘇軾の名と結びつきをるなり。蘇軾は生涯に二度杭州に赴任し、杭州通判即ち知事としては蘇堤を整備するなど町の発展に尽力す。その恩恵を杭州市民はいまだ忘れずといふ。その蘇軾が副知事時代に杭州を読みし詩を筆者はときにそらんずるなり。

  未成小隱聊中隱  未だ小隱を成さず聊か中隱
  可得長閑勝暫閑  長閑の暫閑に勝るを得べけんや
  我本無家更安往  我本家無し更に安くにか往かん
  故郷無此好湖山  故郷に此の好湖山なし

蘇軾はこの詩を役人としての身分において詠みしなれど、余は今自由人としての身分においてこの詩の観賞をなす、即ち長閑の楽しみなり。

蘇軾の時代にも杭州は大都会といふべきなりしが、今日はその規模一層拡大し人口壱千萬人を数ふるなり。されば市内の交通も盛んにして、道路車両に占拠せられ、まともに進むことを得ず。夕近く西湖北側の湖畔に到着す。

西湖は春秋時代の美女西施にあやかりもと西施湖と呼ばれをりしを後世になりて単に西湖と称せらるやうになれり。蘇軾も西湖を西施にたとへて次の如く詠めり。

  水光瀲艶晴方好  水光瀲艶として晴れて方に好し
  山色空濛雨亦奇  山色空濛として雨亦奇なり
  若把西湖比西施  若し西湖を把へて西施に比すれば
  淡粧濃抹總相宜  淡粧濃抹總て相ひ宜し



湖北畔に接して島状の地あり。その一角に楼外楼あり。孫文やら蒋介石らもかつて利用せし酒店なる由。なほ蒋介石は杭州の大財閥出身なる由。大財閥といへば、杭州は今でも成金の都市といはるるほど、金持の多き土地柄なる由。その何故しかるかを弁ぜず。

上の写真は楼外楼にて挙式せる男女を載せたる車両なりといふ。花飾りにかか
はらず車体は埃まみれなり。地方より悪道を走って来れるものの如し。



楼外楼に接して中山公園あり。園内一段と高きところを狐山といふ。その山に登りて西湖を一望す。



また島内に西冷印社なる隠居あり。金石篆刻、書道、山水画の研究施設なる由。あはせて印鑑を購ひてあり。余縦長の落款をひとつ作ることとす。値段の交渉をなし、彫代込壱萬円に値引きせしむ。



次いで曲院風荷なる庭園を訪ぬ。その名のとほり蓮の葉を浮かべ、門には茅盾の書になる号を墨書してあり。

夕刻大渋滞の道路をイライラしつつ進み、途中からはバスを下りて歩きたり。歩いてみて中国人の交通マナーの悪さに吃驚す。信号はあってもあらざるが如く、車両も歩行者も勝手気ままに行動するが如くに感ず。余らは信号に従ひ、交差点を渡らんとするに、自動車は信号を無視して進入し来るなり。

まさに命の危険を感じたるほどにて、中国人はいったい公民の意識をもちをるにやと、その無法ぶりに大いにいきどほりを感じたり。これでは先日広州で小さな子供が公衆の面前で平気で轢き殺さるるやうなことも、不思議にはあらざるなり。

江泥花園なる餐庁にて晩餐をなす。四川料理の店なり。マーボドーフ、ホイコーロー、エビの炒め物のほか、セロリ、小松菜、芋、茄子とアスパラガス、豚肉と餅の料理のほか湯葉とほうれん草のスープを供せらる。筆者はこれにて十分満足せしが、中には品数が足りぬといって不平を述ぶるものもあり。

食後付近の酒屋にて買物をなし、センチュリー・グランド・ホテル(浙江三立開元名都大酒店)に投宿す。





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